当院のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。

思いを持って京都で2008年に開業して以来、今年で14年目を迎えます。これまでスポーツ選手や子どもさんからご高齢の方まで、様々な身体の悩みをもった方が来られました。患者様の症状は十人十色ですが、共通して私が感じることは、みなさんとても「不安」をもっているということです。

どういう治療をするのだろうか?
本当に治るのだろうか?
どれくらい通うことになるだろうか?
この先生に任せられるだろうか?
痛みがぶり返さないだろうか?

など・・・

以前、当院に初めて来られた患者様へのカウンセリングの時に言われたことがあります。「自分の身体を預けられる治療院を探すことも大きな労力がいる。時間は止まってくれない。自分の足で探し求める時間にも限りがある。」と。
本当に重みのある言葉でした。
どんな痛みも患者様にとっては深い悩みです。私の治療は患者様お一人お一人の痛みに寄り添い、痛みに共感し、痛みと向き合うことから始めます。

人の身体は、地球のようにずっと動いています。
辛い状態に陥っても、生きた細胞はその状況を脱しようと常に動いているのです。生命が持つ、いわゆる「治癒力」です。だだ、そこだけに頼るとかなり時間がかかってしまいます。身体全体で治癒に取り掛かりますので、少しでも効率を良くするために、私の治療を身体に施し、「治癒力」が患部に集中できる環境に変えて行くことでつらい状態から抜け出すことができます。

人生は「有限」です。時間には限りがあります。1分1秒でも良い身体の状態で過ごすことで趣味やスポーツ、好きなことに関わることができます。身体のことで深い悩みを持たれている方々に寄り添い、向き合い、5年後10年後も皆様が心身共に豊かに過ごせるよう全力でサポートしていきます。

ラグビーとの出会い

私がどんな人間か少し紹介させてください。
奈良県出身の両親の間に男三人兄弟の三男として奈良県で生まれ、父の仕事で大阪に移り、高校までを城東区で過ごしました。幼稚園の頃、奈良に引っ越す予定でしたが、トラック運転手をしていた父が仕事中人身事故を起こし、借金を抱えたことで、そのまま大阪にいることになりました。ここから私のハングリーな生活がはじまりました。
小学校時は坊主頭で小1の通知表は体育5、国語は1。小2から家の飯炊きが担当、学級会の議題で「藤本君について」と良く議題にあがるほど問題児でした。身体は丈夫なやんちゃ小僧でした。

中学校は小学生の時に見た「スクールウォーズ」の影響もあり、ラグビー部に入部しました。私が通った菫(すみれ)中学はラグビー部が強豪で、有り余るパワーも無くなるほどハードな練習をしました。そこで、チームワーク、上下関係、忍耐、努力、継続、ケガしたことなど、現在の基礎となる部分を学びました。勉強は嫌いでしたが、ラグビーには夢中でした。頑張った甲斐あって3年生の時、副キャプテンを任されました。

父の交通事故

そんなある日、父が仕事帰りに事故に遭い肋骨を数本骨折する大ケガをしました。当然仕事にもなりません。でも、父は「動けなくても何か出来ることはある」と、痛みを堪えながら仕事に行きました。私はこんなことを言いました。「こんな目に遭わされたのに!事故起こした相手から、お金もらって借金返したらええやん!」

父は落ち着いた口調で僕に言いました。「相手はわざとやない、ちゃんと事故後も誠意な対応をしていた。歳も若いし、今からお父さんみたいに借金抱えたら大変や。今はケガして辛いけど、身体は必ず治るから。」と。

親父の背中が大きく見えた瞬間でした。

ここが私の治療家としての原点であったように思います。

プレーヤーからトレーナーへ

高校は、ラグビー推薦で太成高校に進学。私学でしたので、学費を工面してもらいここでも親に苦労をかけました。その分頑張りました。3年ではキャプテンを任され個性派揃いのメンバーを何とかまとめました。
大学進学、就職への進路では、学費のかかる大学には行かず当時、Aリーグ社会人ラグビーの強豪、三菱自工京都から有難いことにお話を頂き、迷わず就職を決め、社会人ラグビー選手としてプレーしました。

日本を代表する選手が何人も所属し、世界中から神様と呼ばれる世界№1プレーヤー「ワイセレ・セレヴィ」選手とマンツーマンでトレーニング、中学からずっと見てきた神戸製鋼とリーグ戦で対戦、正月はラグビーで年越し、そして全国大会といった中々経験できない環境でラグビーに関わることができました。ラグビー選手のキャリアを12年目で終え、新たにトレーナーとし舵を回すことになりました。知識のないところから、自分で模索し、もがきながらのスタートだったのを覚えています。
裏方の仕事ですので、選手の時とは違い、医者、理学療法士、看護師、鍼灸師、トレーナー、などの繋がりを持つことができ、多くを学び、助けてもらいました。身体は元気でしたので、マウンテンバイク、ロードバイク、ボクシング、キックボクシング、総合格闘技など、ずっとやってみたかったことにも挑戦しました。

資格取得、そして開業

これまでの経験は本当に私を大きく成長させてくれました。そして、10年間育ててくれた三菱自動車を退職し、本格的に治療家になるべく履正社医療に入学しました。朝と夜は1日300人もの患者が来院する整形外科での勤務、昼間は学業と、とても多忙な3年間でしたが良き出会いがたくさんありました。
そして、2006年無事国家資格を取得し、晴れて「柔道整復師」となりました。卒業後も整形外科のリハビリ科で勤務し、膨大な臨床経験をさせていただきました。院長先生から独立してもやっていけるとお言葉をもらい、これまでの経験と私を育ててくれた、「縁」多き京都市左京区に2008年7月28日『ふじもと整骨院』を開院することができました。

施術に対する想い

ラグビーなくして今の治療家としての私の章は語れません。

私は中学生の時にラグビーに出会い、社会人まで12年間ラグビーと苦楽を共にしてきました。長い選手生活の中で怪我でもずいぶん悩まされてきました。肩の骨折、脱臼、膝、腰の手術もしました。選手生活を終えた後もラグビーへの情熱を捨てることができず、選手たちをサポートするトレーナーとしてラグビーに関わり続けていました。
選手の身体のケアをし、復帰していく選手を目の当たりした時はまるで自分が選手復帰できたかのような喜びに満たされました。トレーナーとして活動する中で、きっと他のスポーツでも怪我で悩んでいる人がたくさんいるはず!スポーツを頑張る人を助けてあげたい!その時、私の第2章は「治療家になる」ということだと確信しました。

両親の反対にも聞く耳もたず、せっかく入った会社を退職し、柔道整復師の資格取得のため専門学校に通い始めました。学業の傍ら整骨院や1日約300人も来られる整形外科のリハビリ科で勤務しながら、またトレーナーとしても活動しながら、たくさん勉強させてもらっていました。学業と仕事の両立は大変でしたが、「あきらめが悪い」という私の短所が生かされたのか、とにかくたくさん学び、吸収するんだという強い意欲を持ち続け、国家資格を取得することができました。

晴れて柔道整復師となれた私は迷わず決めました。
京都で整骨院をする!と。柔道整復師という道を選ぶきっかけを与えてくれた京都で開院する、そして恩返しをしていく、と。

「自分の身体を預けられる治療院を探すことも大きな労力がいる。時間は止まってくれない。自分の足で探し求める時間にも限りがある。」

どなたも、こんな思いで当院にいらっしゃっているはずです。
ふじもと整骨院は、こんな私、藤本知博が毎回引退試合に臨むような気持で身体の治療をさせていただいている治療院であります。

ぜひ一度当院へお越しください。私の持ち前のあきらめの悪さ、根気強さをもって、あなたのお悩みに親身になって寄り添い、ご一緒に解決の糸口を探してまいります。
あなたのご来院をお待ちしております。